Column & Diary

[代表雑記 031] 言葉に求められる説得力

2017年12月8日

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自分の中から出てきた言葉じゃないと伝わらない。
そんな意味合いのことをよく耳にする。
先日は舞台の演出をする際のエピソードとして、この話を聞いた。

舞台俳優たちがセリフを言う。
違う、違う。その言葉は、登場人物の言葉になっていないと演出家は怒鳴る。
役者としてではなく、その作品の登場人物として
その身体と心から出てきた言葉で語らないと、観客の胸には響かないと。

舞台の表現要素は、とてもシンプルだ。
簡単なセット、照明、音楽、そして衣装を着た俳優。
文字通り、俳優の発する言葉によって物語がつくられていく。
だからこそ、そこに“ウソ”が感じられると、物語がカタチにならない。
そういう意味で、言葉が放つ説得力が重要になってくる。

じゃあ、映画はどうだろう?
映画の表現要素は、じつに多彩だ。
役者が演技をするという部分は同じかもしれないが、
演じる空間に制限はない。さらに編集によって、表現の自由度はさらに高まる。
そんな映画において、役者の言葉による説得力は
どれぐらい重要なのだろうか?

たぶん、舞台の言葉と、映画の言葉では、求められるちょっと説得力が違うんだろうなと思う。
舞台の世界を成立させるリアリティと、映画の中でのリアリティが違うように。

なんでこんなことを考えたかというと、
この間、舞台の演目を映画化した日本映画をDVDで観たのですが、
それが全然おもしろいと思わなかったのです。
観たときは、それがもともと演劇だったとは知らず、
あまりの長回しや長ゼリフに違和感があり、若干イライラしながら画面を見つめていました。

使われる場所によって、言葉に求められる説得力も変わってくる。
じゃあ、広告は? メディアによっても違うんじゃないか?
CMでは? WEBでは? エディトリアルでは?
期せずして、そんなことを考える機会になりました。

「言葉に求められる説得力」とか、大げさなことを言っていますが、
その場所の表現として、魅力的か/魅力的でないか、
単純にただそれだけのことかもしれない、と思ったりもします。