Column & Diary

[代表雑記 001] コラム&ダイアリーのはじまりにあたって

2016年7月31日

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書くことが苦手だ。
まず、書くために自分を机に向かわせるのに、ひと苦労する。
部屋を片付け、床を掃除し、やることがなくなったら、しょうがなく机に座る。
そこから、出だしの一行が定まるまで、苦悩と悶絶を繰り返す。
仮にもコピーライターを生業とする者が、こんなことを吐露するのもどうかと思うが、
本当のことなのだからしょうがない。

でもたまに、文章の始まりから終わりまで、すらすらと一気に書ける時がある。
それは、書くべきものがはっきり見えている時だ。
こうなると、あとは黙ってそれらを頭の中から降ろしてくるだけでいい。
無意識に心に刻まれたこと、おもしろいと感じたもの、どこか違和感を覚えるもの。
そういうものごとに出会った時に、書くべきことが見えてくるように思う。

今から16年ほど前のこと、
僕はあるひとつの文章を、友人たちにメールで一斉に送信したことがある。
当時、僕らはグループで遊びに出かけたりしていて、
そういうなかでの予定のやり取りの、ついでみたいな感じで送ったのだ。
その時の文章は、まさに書くべきものが見えていて、
しかもなぜかそれを、残したい、伝えたい、と思ったのだ。
(これがきっかけで、仲間内のメルマガ的なメールを1年ほど続けることになったのだが、
その話は、機会があれば、またいずれ)

今回、ナイスキャッチのホームページ開設にあたり、
コラム&ダイアリーというページを設けた。
まったくもって自分の首を絞めるような行為だが、そう決めてしまったのだ。
あの時の、書くべきものが見えている感覚を思いだし、
自分を奮い立たせるために、あの文章をもう一度、掲載しようと思う。

—–
 
(中略)
ところで、僕の正月はというと、これはもうすんごいことになりました。
A HAPPY NEW YEAR in 葬儀場。
なんと、年の瀬もまさに押し迫った12月31日。
祖母が92歳をもって天寿をまっとうなさったのです。まさに、大・往・生。
そんなもんだから、年越しは通夜となり、葬儀場で宿泊。
おまけに火葬場が2日からしか開かないので、元旦もお泊まり。
都合、12月31日と1月1日と2日の2泊3日を
炭鉱で有名だった筑豊というさびれた片田舎の、
しかも葬儀場で過ごすことになったのです。

病院からの連絡をうけて、祖母の面会に行ったのが31日の朝10時。
その時はまだ息はあったのですが、まるで来るのを待っていたかのように
ものの10分もしないうちに、例の心電図のピーーーってやつになり、
祖母は、祖父の元へと旅立って行きました。

それからの舞台は葬儀場です。
僕は知らなかったんですけど、今は通夜を葬儀場でする家が増えているので、
ちゃんと宿泊できるようになっているんですよ。
仏壇のある座敷の横にもうひとつ部屋があり、
そこには、こたつがあってテレビがあって、台所があって冷蔵庫があって、
トイレがあって風呂があってって、もう完璧。
家族としては、時期が時期だし、身内だけの密葬にする手はずにしていました。
だから、ほんとにうちの家族だけの旅の宿状態です。
違うのはふすまを開けると、長い座敷の奥に、
ばあちゃんの亡骸が鎮座していることだけ。

お寺さんにお経をあげてもらうと、もう火葬までやることがありません。
とりあえず酒と食い物の買い込みです。
ついでに家から炊飯器と新聞のテレビ欄、そしてパジャマなどの
部屋着をもってきて、我が家のようにくつろぐ態勢を整えました。
おまけに夜になると葬儀場の人も帰るので、
ここには菅原家しかいません。もはや独壇場です。

とりあえず風呂に入って、パジャマに着替えてビールをプシュー。
横では、ばあちゃん死んでる。
テレビをつけて、笑いながら、年越しそばをズルズル〜。
横では、ばあちゃん死んでる。
紅白観て、ゆく年くる年観て、家族であけましておめでとうございます。
横では、ばあちゃん死んでる。

そうやって祖母が灰になるまでの2泊3日、
家族と祖母だけで、のんべんたらりんと正月を過ごしました。
そもそも、家族で新年を迎えるのなんて10年以上やってなかったし、
とても新鮮な、なんだか楽しい気分でした。
そして自らの命を最高の形で終わらせた祖母の偉大さを感じたり、
さらにこういう事態にも、酒飲みながら笑って過ごせる家族を見ていると、
ああ、菅原家はこれからも大丈夫だ、と妙な感慨にふけったりして、
新しい年の始まりとしては、これ以上ない素晴らしい力をもらったような
めでたく、ありがたい、僕のお正月だったのです。

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それではコラム&ダイアリー、スタートです!