学生時代の思い出を語る際、よく話題に挙がるのが、名物先生のエピソードだ。
僕の高校でも、圧倒的存在感を放つ、オンリーワンな先生がいた。
生徒指導の体育教師、O先生だ。
「生徒指導の体育教師」と聞いて、どんなことを思い浮かべるだろうか?
上下のジャージで、いつも竹刀を持って、校門に仁王立ちしている。
とにかく威圧的。校則厳守のためなら、鉄拳制裁もいとわない。などなど。
そういうイメージをギュッと凝縮して、人型に流しこんで固めたような人。それが、O先生だ。
僕が入った高校は、新設校(じつは一期生です)だった。
自分たちで新しい学校をつくろうと、大志を抱いて入学してきた生徒の自主性を重んじるのではなく、
新しい学校だからこそ、生徒に好きにやらせないために厳しく管理するという方針を選んだらしく、
生徒指導部の影響力は絶大なものがあった。
その頂点に君臨していたのが、O先生というわけだ。
自分にとっては人生で初めて出会った「大人や社会の不条理」を体現する人物だった。
O先生の暴君エピソードは枚挙にいとまがない。
それこそ同窓会では、その話だけで延々と盛り上がることができるほどだ。
さらにいえば、そういう場で爆笑が起きるほど当時のO先生の言動は強烈で、
だからこそ今となっては、いい思い出をくれた先生として多くの卒業生に愛されている。
しかし、僕は人としての器が小さいのか、それがいい思い出とは、いくつになっても思えない。
時々、当時を思い出しては、「あれはなかったよな」といまだに憤りを感じたりもする。
過ぎたこととはいえ、人生でいちばん多感な時期だったのだ。
まあ、もしかしたら、思い通りとは言えない学生時代のゴーストスケープ的なものとして、
O先生をとらえているのかもしれないけれど。
そんなO先生が、亡くなった。
先日、同窓会のLINEで訃報が回ってきたのだ。御年82歳だったという。
さすがに故人となってしまえば、昔の思い出は美化されることになるのだろうか。
僕が感じたのは、全然違うことだった。
自分の人生に関わる登場人物が、舞台から次々に降りていくーー。
そういう喪失感にも似た感情だ。
存在感が強くて、いるのが当たり前と思える人がいなくなる時ほど、その不在を感じることになる。
思い出の良し悪しに関わらず、自分の人生のある時期に存在していた人は、
自分の人生そのものの一部に組み込まれている。
そんな当たり前なことを、不意に突きつけられる出来事になった。
まことに失礼ながら、まさかO先生にもそんな感情を抱くとは思ってもみなかった。
あらためまして、ご冥福をお祈りいたします。
これからの人生、こういうことがもっと増えていくのでしょうね。
出会いを大切にするってやっぱり大事だなと、しみじみ思ったりします。
[代表雑記 030] ある生徒指導の体育教師
2017年12月6日